誰かのために...音楽を・・・・作曲・和声の部屋から

朝の連続テレビドラマで久しぶりに音楽家の話が取り上げられている。
そのドラマ「エール」の中で最近「君は一体誰のために音楽をやるのか・・」という場面があり印象的であった。私も作曲家として、音楽家を育てる立場の者として心に響くものであった。
ドラマの主人公、古山裕一はこの一言でその未来が開けてゆくのである。

今回の朝ドラ「エール」の主人公、古山裕一のモデルは、昭和を代表する作曲家古関裕而である。1909年(明治42年)に生まれ平和な時代から戦争を経て戦後の高度成長時代を生き抜き1989年(平成元年)に亡くなった。

福島県の呉服商の家に生まれ、裕福な家庭で、音楽好きの父の影響もあって幼少の頃から音楽、特に西洋音楽に親しんでいた。
独学で作曲を身につけ、国際作曲コンクールに見事2位入賞した。その後一念発起して東京に出て山田耕筰にその才能を認められ、コロンビアレコードと赤レーベル専属契約を結ぶことになる。赤レーベルとは大衆音楽、平たく言えば「流行歌を作曲する専属作曲家」としての契約であった。

西洋音楽、特にクラシックの作曲に情熱を燃やしていた古関裕而の曲は、当初ちっとも採用されず、契約解除になりかけたこともあったらしい。
ドラマによると、「自分のために音楽を書く、自分の音楽は捨てない」という姿勢の古関裕而を決定的に開眼させたのは、当時、野球の「早慶戦」に勝てない早稲田大学の応援団であった。その応援団長が古関裕而のところに「慶應に勝てる応援歌を、勢いのある応援歌の作曲をお願いしたい」と頼みに来るのであった。しかし自分の音楽にこだわり続ける古関裕而はその依頼を引き受けたものの、作曲は進まなかった。

コロンビア同期採用の古賀政男は、その時古関裕而に「あなたは私から見てもとても才能があると思うが、それにこだわって自分の世界に閉じこもって才能を発揮できないのはとても勿体無い。」「誰かのために・・という気持ちになったことがありますか?」「私のように市井に生きる作曲家にはそういう姿勢が必要なのだ」ということを延々と説いたのであった。そして、再度応援団長の熱い思いを聞き、一夜で書き上げたのが「紺碧の空」という曲である。今は早稲田大学の第一応援歌となっている名曲の誕生であった。  
時の早稲田大学教授であった西條八十が絶賛したという歌詞、このしっかりとした日本語の一音一音に、古関裕而の西洋音楽によって培われた感性が融合し、見事な応援歌として仕上がったわけである。そして古賀政男は、この曲の最後の部分「覇者、覇者、早稲田」の「覇者(ハシャ)、覇者(ハシャ)が付点音符を伴った西洋音楽の発想によって書かれているメロディが素晴らしい。これは独学とはいえ、西洋音楽を学んだ人間にしか書けない」という本質を指摘し、「古関裕而の音楽」が次第に確立していくのであった。そして後の名作「長崎の鐘」に結実する。

この「エール」という番組の中で感じたことであるが、ここには全ての音楽家が心しておかなくてはいけないことがある。それは全ての文化人に言えることであるが、自分の「才能」を「誰かのために役に立てる」という発想である。
「作曲家」は演奏家と聴衆のために、「演奏家」は聴衆のために、そして、「教育者」は学ぶ者の未来のために、「研究者」は、明日の文化歴史形成のために・・。「誰かのために生きていく」このことを教える重要な役割を音楽教育は目指さなくてはいけない。自分にこだわり自分の流儀のみにこだわり、自分しか見えない狭量な姿勢では音楽表現、創作や演奏、そして教育すらも人にはその真実なる心と姿勢が広まらない。そのためにこそ覚える「専門技術」である。

今、新型コロナウイルスの問題で、医学においてはこの人類を駆逐するコロナ撲滅を目指してワクチンの開発に挑んでいる。まさしく「人間のために、誰かのために」という発想なくして前進はないのである。「人類の英知の結晶」が待たれる今日この頃である。それは不断の努力で必ずや達成されるはずである。
それこそ人類が贈る「共有のエール」であるともいえよう。 (八杉忠利 記)

2020年05月31日